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◆2022-09-20
第2回人間講座へのコメント返し:オーストラリア関連

第2回人間講座(配信期間:7月22ー31日)に私の名前に言及されたコメントが2件ありましたので、それにかんして書いてみようと思います(随分長文になってしまいましたが)。

【コメントから】
(1)「文化展示」についての指摘に関連してですが、確か「アフリカのサバンナ」の村落は民族学者の監修を受けていると伺った気がします。望ましい方向性と思いますが、いかがでしょうか。

(2)民俗学見地から動物園の展示についてお話があったことも意義あることと存じました。(注:わたしの専攻は文化人類学ですが、民族学ということもあります。民俗学ではなく、民族学です。同音で紛らわしいですが。投稿なさった方、ひょっとしてワープロ誤字かもしれませんね。もしそうなら、ごめんなさい)

【はじめに】
コメントをありがとうございます。わたしが、第2回人間講座において発言したことについて補足しつつ、おふたつのコメントにたいして返信したいと思います。

わたしの人間講座での発言(「よこはまズーラシア」の「オセアニアの草原」ゾーンについてのもの)には、わたしがオーストラリア研究者であることもあってこのゾーンが特に目についたからで他の地域がどうであったかについては触れるつもりはありません。また、民族学者の監修があったかなかったかについても、問題にしているわけでもありません。ただし、気になったことをもう少し具体的に述べたいと思います。

「オセアニアの草原」ゾーンには「プカマニポール」(気がついたのですが、あいにく、私はズーラシアで写真を撮っていませんでした。残念。通路脇の茂みの中にあったのでほとんどの方がお気づきにならないとおもいます。プカマニポールとはなにかについては、後に触れます)が1本立てられ、さらにゾーン内の通路には「砂絵」(後述)が描かれていました。これら2つのシンボルについて、くわえて、こうしたシンボルと動物園との関連について、色々考えることがあるということを指摘したかったのです。

【プカマニポール】
まずはプカマニポールです。わたしは、1984年に初めてオーストラリア調査を行った際、プカマニポールが使用されていたオーストラリア北部離島のバサースト島に行ったことがあります。その時の写真をお見せしますが、プカマニポールとよばれるものは、もともと現地のティウィと呼ばれる人々の墓標だったのです。遺体を埋葬したと思える土盛りの周りに林立させるのです。人間講座の中でわたしがうつるビデオの背景にあった画像は、じつは、プカマニポールなのです(ほとんどの方がお気づきにならなかったかもしれません。ブリスベンの州立美術館で撮影したものです。ここにも載せておきます)。

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1984年バサースト島にて、プカマニポール。彩色が残っている

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1984年バサースト島にて、プカマニポール。古いもの
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2017年クイーンズランド美術館でのプカマニポール

プカマニポールは、もともとは墓標だったのですが、現在は現代アート作品として、オーストラリアの博物館や美術館、街のアートギャラリーなどでも見ることができます。もともとの墓標という文脈から現代アート作品へと変身したというわけです。

オーストラリアではアボリジニの物質文化の文脈から換骨奪胎されて、もともとの使用方法から変化しているものがたくさんあります。オーストラリアでは、国家を象徴するシンボルとして先住民のアボリジニの文化表象が用いられることが、特に1970年代以降多くなりました。それは、アボリジニの復権(1968年の国民投票)や「建国200年」(植民が開始された1788年以来200年の1988年)を祝うといった国家的な行事が行われたことと関連があります。

【オーストラリアの歴史とアボリジニの物質文化】
ご存知のようにオーストラリア国家は1770年にキャプテン・クックにより領有宣言されて大陸がイギリスの領土となり、1788年に植民地として移民が送られてきたことに始まります。ところが、大陸には先住民がおり、諸説ありますが、現在ではすくなくとも約6万年前にはアボリジニの祖先がアジア大陸方面から渡ってきたとされ、いわば、アボリジニたちは「最初のオーストラリア人」といえます。かれらは、大陸の多様な環境に適応しながら居住範囲を広げてきました。彼らの所持した物質文化は決してバラエティ豊かなものではありませんが、それでも狩猟採集のための道具や創世神話などを表象する絵画や彫刻などを生み出してきました。

たとえば、ブーメランはどうでしょうか。おそらく、多くの方はブーメランのことはご存知のはずですが、じつは、様々なタイプのブーメランが大陸各地で生み出されたので、我々が知っている投げると戻ってくるブーメランはその一つのタイプに過ぎないということは知っておいていいでしょう。

あるいは、アボリジニの絵画のいくつかのタイプをご存知かもしれません(州立博物館のプカマニポールの背後にある絵画など)。北部ではユーカリの樹皮を剥ぎ取り、平らにしてその内側に描く樹皮画が知られ、中央砂漠では点描の「砂絵(sand painting)」、あるいは、「アクリル画」が知られています。プカマニポールもこうしたアボリジニ表象のひとつといえます。

よこはまズーラシアで撮った写真にあったもう一つの図像(写真)、これは、中央砂漠の「砂絵」のデザインを踏まえているとおもいます。あるいは、1988年(先程書いた、「建国200年」です)に竣工したオーストラリアのキャンベラにある新しい国会議事堂の正面入り口のタイル画を踏まえている、ということかもしれません(私が1998年に撮ったものがあります)のだと思います。このタイル画もまたオーストラリアのナショナルイメージとして、最初のオーストラリア人であるアボリジニのイメージを流用したものだと言えるでしょう。

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2022年よこはまズーラシアにて
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1996年オーストラリア新国会議事堂前の広場

【アボリジニ著作権】
これらのように、アボリジニの作品を文脈をかえて利用するということについて、かつてオーストラリアでは様々な問題がありました。

その一つは、著作権に関連する盗用の問題です。アボリジニの作品のモチーフを利用するに当たり、原作者の名前などの属性をクレジットするのが、現在ではオーストラリアの著作権上の原則となっていますが、問題がないわけでは有りません。たとえば、現代の著作権が認めていない共同著作権(具体的に明確な複数の著作者による著作権ではなく、不特定多数によるもの)はその例と言えるでしょう。その点については、今回触れることは有りませんが、アボリジニ作家の作品の著作権について、この原則が確立する以前は、たとえば、フロアマットや壁掛け、布地のデザインとして、盗用される事が多く見られました。

こうした流れに対して、オーストラリア北部アーネムランドのアボリジニ芸術家の故ジョン・ブルンブルン(John Blun Blun、1946-2010)は、1996年に訴訟を起こしたのです。その告発は、1978年制作の自身の制作した樹皮画にたいする著作権侵害を告発するものでした。作品は、ブルンブルンが所属する氏族の「祖先の旅」のモチーフを描いたもので、この作品はまず、作者ブルンブルンからマニングリダ・アーツ(彼の居住地の支援組織)が買い上げ、ダーウィン市のノーザンテリトリー美術博物館が購入しました。そして、著作権者ブルンブルンの合意のもとにこの作品を掲載するカタログが出版されたのです。ところが、彼の合意を得ないまま、この書籍の図版をオリジナルとしてデザインが盗用されて布地が製造され販売されました。

1996年の訴状は、デザインの無断盗用という著作権法違反による告発のみならず所属する氏族のもつ伝統的な共同著作権(communal copyright)と先住権原(native title)にもとづき、作品のデザインを複製し盗用した会社を告発するとしたのです。とはいえ、こうした問題は相変わらず続いています。旅行者向けのイメージ商品の中にはいまだに、アボリジニの作品とうたいつつ国外で生産された商品が販売されているケースが後を絶たず訴訟問題が現在も起きているのです。

【アボリジニとは誰か】
関連したもう一つの問題は、誰がアボリジニに関する作品を書くことができるのかという問題です。たとえば、マルロ・モーガン(Marlo Morgan 1937-)の書いた『ミュータント・メッセージ』(オリジナルの"Mutant Message Down Under"は1991年発行、邦訳されていますが、現在ではフィクションとして再刊されています)です。この作品では、彼女はアボリジニのシャーマン(呪術者)とともに乾燥地帯を旅してアボリジニから自然とともに生きるということを学ぶというものです。問題になったのは、彼女が、この作品を創作ではなく、体験記だとし、部族の長老からのメッセージを捏造して掲載していたことです。つまり、アボリジニとともに体験した記録だとして書いたわけです。ところが、アボリジニたちから非難の声があがりました。事実ではないと。

さらに、1990年代には「アボリジニとはなにか」についての論争の契機となった事件もありました。それは、アボリジニ出自の作家・大学教授として著名なムドルールー(本名はColin Thomas Johnson、筆名はMudrooroo NaroginもしくはMudrooroo Nyoongan 、1938-2019)が、アボリジニたちからその出自についての疑義を突きつけられました(彼の名前は、出身地や一族の名前にちなんでいたのですが、それを否定されたのです)。そのきっかけになったのはかれの実の姉からの告発でした。彼女は、かれの皮膚の色や髪の毛の色は、5世代前のアメリカ生まれのアフリカ人によるものだと。ちょうどその頃、ムドルールーは1990年に出版した書籍の中で、アボリジニ作家としてベストセラー作品『マイ・プレイス』(オリジナルの"My Place" は1987年、邦訳は1992年)を出版したサリー・モーガン(Sally Morgan 1951-)を批判していたのです。アボリジニの出自をもつものの、白人社会で暮らしてきたと。ところが、ムドルールー自身が逆に批判されてしまったのです。かれは、職をうしない、出版社の支援も失ってしまいました。

【むすびにかえて】
オーストラリア以外でプカマニポールが使われている例を私のとった写真の中で見つけました。場所はシンガポールの「ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ」にあるcの中です。この施設は隣りにある「クラウド・フォレスト」とともに、ドーム状のガラスに囲まれた巨大な屋内植物園です。「クラウド・フォレスト」が湿度の高い熱帯の森林がイメージされ、一方の「フラワー・ドーム」では乾燥地帯の環境が再現されています。その一角に、「カンガルー・ポー」(カンガルーの手のような形状をしているというので名付けられたオーストラリアの花)が根もとに配されて、3本のプカマニポールが立てられていました。見たところ、泥絵具(オーカー)で彩色されていて、オーストラリアでティウィの作家による制作のように見えました。もっとも、わたしは、そのことについて、確認していないので正確なところはわかりません。

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2016年シンガポール、「フラワー・ドーム」にて

よこはまズーラシアにおける「オセアニアの草原」ゾーンでだけでなく、シンガポールのそれも、また、オーストラリアの新国会議事堂の入口近くのモザイク画もまたオーストラリアのイメージを喚起させる素材として使用されていたということになりますね。いずれも、その際にアボリジニが制作した作品のイメージが用いられたのです。その事自体、何も問題はないと思います。とはいえ、その背景を知っておいたほうがいいに決まっています。とりわけ、世界の先住民の多くは、社会的に虐げられた過去を持っており、社会的に恵まれない現在をも抱えています。先住民について、何らかの目的でイメージとして利用する場合にも、そうしたことを何らかの形で伝えることが重要だと考えています。

最近では、エリザベス二世女王の国葬が日本だけでなく世界のトップニュースですが、アボリジニ初の上院議員となったリディア・ソープが女王の崩御に遡る8月1日の国会宣誓式の際に女王のことを「植民者」と呼んだことが話題になりました(Yahooニュース:8月3日)。ご存知のようにオーストラリアは女王を国家元首としており、上院議員は忠誠を宣誓することになっているのです。しかし、先に記したように女王を国家元首としているのは、かつてイギリスの植民地であったことを踏まえており、植民地化の結果、アボリジニたちが先住民として過去も現在も様々な不利益を受け続けてきたことも事実で、ソープ議員はそのことについて世論に喚起しようとしたのです。

エリザベス2世女王からチャールズ3世国王へとイギリスの王権が移るこの時期を選んで従来からの懸案事項と捉えていた国家体制の変更を政治化するイギリス連邦の国家が増えると考えられます。すなわち、イギリス国王を国家元首とする立憲君主制から共和制(選挙によって国家元首を選出する)に変更し、植民地であったという歴史を克服した主権国家へと移行を目指すというものです(現在、世界でイギリスをふくむ15カ国がイギリス国王を国家元首としています)。新国王に対する忠誠を誓うと同時に、バルバドスは近く国民投票の実施を表明し、ニュージーランドやオーストラリアも共和制への移行について、近い将来(あるいは、遠くない将来)に具体化する方向性を女王の国葬に当たり表明しています。オーストラリアでは、1999年に国民投票が行われ、賛成が多数を確保できず立憲君主制を維持しました。こうした、立憲君主制から共和制へとの動向は、植民地主義の克服や先住民問題とも関連して目を離せない事柄であると思われます。

コメント返しとしては随分長文になってしまいましたが、ご理解を深めるきっかけになればと思っています。

主任研究員:杉藤重信

備考:本文中にある写真はすべて著者の撮影によるものです。最初の2枚のプカマニポールの写真は1984年、クイーンズランド美術館のものは2017年の撮影です。ズーラシアで撮ったものは2022年、新国会議事堂前は1996年、最後のシンガポールでのものは2016年の撮影です。

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